アニマ pain killer 2
腹の底にわだかまる悪意の形を探るのは、ひどく気が滅入る作業だ。
* 5 *
「お前……ッ、何やってんだ!」
俺は思わず、如月の手首をひねりあげていた。ズッ、と床の血に爪先が滑る。
狭いユニットバス。曇りがちな鏡の前に立つ如月。その指に構えた、血に濡れたカミソリの刃。
自傷か。
「………痛くない」
「痛くないわけねェだろうが!」
馬鹿げた問答だった。
つかんだ手首を、縦横に走る無数の切り傷。
痛いの痛くないのと悠長に問答している場合じゃねェ。
怒鳴った俺に、如月は首を振った。怯えたように目を見開いたまま。
「……怖い」
カチャン、と音を立ててカミソリが洗面台のホーローに跳ねた。追うように数滴、血がしたたり落ちる。
「僕は、ちゃんと生きているのか?生きていると言えるのか?このまま…………が、なくなったら、そうしたら、僕は無くなってしまう。何も、無くなってしまう」
血の気の引いた唇が、小刻みに震えていた。
「タツマは………死んでしまったりは、しないだろう?そうだろう?」
怖い、と如月は何度もつぶやいた。
初めて目にする、如月の表情。怯え、強張った頬をひきつらせて語られる、その胸の裡。
「如月…………、お前」
俺は、言葉を失った。
秋月には敵が多かった。同じくらいには、味方も多かった。定められた長者を守るべく、投げ出される幾つもの生命。柾希や薫の人格とは何ら関わりのない理由で消費されるその種の人間は、もはやモノでしかなかった。
如月もまた、同じ類の男だった。
どれだけ無理強いをされても、使命の範疇ならば何事もないかのように黙るだけ。
淡々と感情の無い白面が、ひと目見たときから気に入らなかった。
タツマのためと語るその言葉に、キレイ事ばかりと侮蔑した。
そんなものは嘘だろうと暴いてやりたかったのだ。人間の本性なぞ、どいつも変わりはしないのだと。
何故そうなのか、考えてみたこともなかった。
「村雨………違うと、言ってくれ……」
弱々しく首をふる如月に、俺は腕を伸ばした。震える肩を抱きしめる。
「むら…さ、め……」
抱いた腕に力をこめた。無性に泣きたい気分だった。
「……すまねェ」
他に言葉が無かった。
本当に、そんな人間がいるとは思えなかったのだ。俺には。
キレイ事を剥ぎ取ってしまえば死に直結する、使命そのものが自己存在である人間など。
だから如月が憎かった。
嫉み恨みながらも、無視することができずに執着した。
「すまねェ……」
俺は繰り返した。
もしも俺が如月だったなら、俺は柾希を守って生命を落とせただろうか。
済まないと、囁くような掠れ声が額に降り、僕は目を開いた。
聞きちがいだろうかと首を傾げたところに再び、繰り返す。
「すまねェ……」
何を謝られているのかが分からない。
「むらさめ?」
舌が上手く回らなかった。
なぜだろう、不安に呼吸が上がる。
切っても切っても、
痛くない腕。
なのに、
血がしたたる腕。
それが僕を駆りたてる。
僕という人間は、本当にまだ存在するのだろうか?
タツマが黄龍の器であるのなら、僕もまた、玄武の器というべき人間だった。そのように産まれてしまった事実は変えようがない。だから怖かった。
そのように産まれてしまったのに、タツマがいなくなったら僕は何になるのだろう。
祖父はいない。九角は倒れた。もはや僕に使命を果たせと命じる者は亡い。
この上、タツマまで失ったなら。
僕は、
僕は、
僕は?
「すまねェ………って、そうだな、アンタには分からねェよな。悪ぃ」
村雨は、微かに笑って僕を放した。
「手ェ出しな。ひでェ傷だぜ、まったく………いくぜ」
ぱらり、と村雨の掌に札が開いた。菊に盃、そして芒。仄白い燐光を放つ二枚の役札。
「月見酒ッ!」
短く、鋭い言葉と同時に光が立ち昇った。酔い始めのような、ほんのりと温かい酩酊が身体を包む。
「どうだ?」
「……なにが?」
村雨はため息をついた。
「………しょうがねェな、脱げよ。脱がすぞ、血まみれじゃねェか。このシャツ」
襟に手をかけられて、僕は思わず顎を上げた。ボタンをはずそうと視線を落とした村雨の、真剣な顔と目があった。
泣いていた。
自分で気がついているのだろうか。村雨の頬に幾筋も、涙が跡をひいていた。
「くそ、上手くはずれねェな」
毒づいて乱暴にボタンをはずす村雨に、指を伸ばす。頬の涙をそっとぬぐうと、村雨の手が止まった。
「……おい?」
息が触れるほど間近に、唇があった。
「…………………」
セックスに、いったい何の意味があるだろう。
少なくとも其処に、愛はなかった。
あるのは快楽と屈辱、全身が軋みをあげて受け入れる、
苦痛。
柔らかく、唇が重なる。
「きさら……ッ」
咎める声をあげ、僕を押しのけようとした村雨は、バランスを崩してよろめいた。
バスルームの壁に突きあたり、僕もろともに倒れこむ。
「止めろ……」
身体を乗りあげ、顔を背けた村雨の首筋を舐めるように噛んだ。涙の跡を唇でたどり、閉じた瞼をやさしく食み、舌で抉じ開ける。身動ぐ眼球を撫でて、離れた。苦い塩の味がした。
「…………ッ」
村雨は顔をしかめ、残る片目で僕を見上げた。その片目に、再び唇を寄せる。わずかに肩を揺らして、村雨はそれを受け入れた。
ゆっくり音をたてて、僕は村雨を貪った。両眼を僕に奪われた村雨は、盲目のまま、僕に腕をさしのべた。節くれだった指が僕のうなじを捕らえ、髪を散らす。
瞼から鼻梁を通り、ざらつく上唇を舐め、さらに奥へ。何度も角度を変え、口腔を探る。
煙草の匂いが残る奥歯を、なめらかな頬の内を、舌の裏を、思うままに。
「ん……ッ」
蹂躙する僕の舌を、不意に村雨が絡めとった。
誘うようにゆるやかに、僕の動きを反復して蠢く。
次第に息がきれ、鼓動が速くなる。呼吸をしようと、顎を浮かせた瞬間、逆に口内を犯された。
「……ぁぅ、……あ」
おだやかな、けれど力強い舌使い。舌の上で弾ける快感に、腰がくだけた。支えきれずに身体が沈み、それで唇がそれた。
二人の荒い息が、バスルームに響く。
喘ぐ僕の背を、大きな手がなだめるように撫でた。
「無理は、するな」
村雨が言った。
「……して、ない……」
「そうか」
肯定とも否定とも声音にはこめず、村雨は身を起こした。
「着替えねェと風邪ひくぜ。立てるか?」
僕は黙って首をふった。気怠い熱に、動作が緩慢になる。村雨は肩をすくめた。
「まあ、もともと濡れた服だからな。大差ねェか」
僕を抱き起こし、蛇口をひねる。シャワーが浴槽を打ち、湯気が立ち昇った。
温度を確かめ、シャワーヘッドをつかむと村雨は僕の腕を洗い流した。
「傷が」
「ああ、俺が唯一使える癒しの技だ。菩薩眼の姐さんほどじゃないが、役に立ったろ」
血糊の消えた腕に、瘡蓋が出来ていた。それさえも、指で払うとはがれて落ちる。
「どうした。痛むか?」
見上げた村雨の顔に、古い傷跡を見つけた。白く引き攣れた、顎の傷。
「これは?」
触れると、村雨は視線をそらした。
「こいつは、月見酒をおぼえる前の傷だ。それに、この役札じゃ俺自身は癒せねェからな」
「……痛む?」
「昔の傷だぜ。………ッて、おい。風邪ひくって、言ってるだろうが」
「ぬれた服は、脱ぐ。僕も、君も」
あっけにとられた村雨に、もう一度唇を重ねる。
村雨は、あきらめたように身体の力を抜き、僕を抱きとめた。
セックスに、いったい何があるというのだろう。
身体が感じる物事に、どんな価値があるのだろう。
僕が僕自身をいくら刻んでも、肌に痛みを知ることは出来なかった。
けれど、村雨と触れ合う時には。
鼓動は強く速く打った。
生きている、動物の証として。
本能のままに。