アニマ pain killer 2
* 7 *
結局、如月は熱を出した。
馬鹿なことをしたもんだ。後悔したが、もう遅い。
ベッドを占領され、毛布にくるまって床で寝た。翌朝、家電屋の開店を待って、加湿器と水を買ってきた。一度も使ったことがない鍋を洗って、レトルトの粥を放りこむ。
如月は眠っていた。
呼吸は浅く速く、頬に微かな赤味がさしている。あえかな息が情事の最中のような艶めいた風情だが、不思議と劣情は起きなかった。
妙に穏やかな自分に、調子が狂っちまいそうだ。
思い出してバスルームの扉を開くと、饐えたキツい臭いがした。
床に散る血の跡。昨日の名残。
洗い流して換気扇を回す。ふと、鏡が目に入った。
鏡に映る自分の顔は、二年前とはずいぶん違っていた。
……当たり前だ。
人間は成長する。俺はあれから身長が十五センチ伸びた。
昔の俺を知るヤツなら、人相の変わりようにも驚くだろう。
「学生には見えねェって、さんざん言われるしな…」
カタギに見えないと言われるよりは、マシか。自分で納得するだけ虚しいが。
月見酒は、あの事件の後に見出した技だった。狂ったように力を欲して、無茶をくり返してきた。他人より多少進行の早い老いは、その代償だ。幾つもの役札を操るようになり、戦闘能力は格段に増大したが、癒しの技はこれ以外に身につかなかった。
自分自身を癒すことはできないが、目的には不足ない。
鏡ごしに、顎の傷をなぞる。
「痛い、か……」
昔の傷だ。痛いはずがねェ。だが鏡に映る己の顔が、この傷を発端にしているなら、確かに傷が癒えたとは言い難かった。
今も、柾希は病院に居る。
リビングに戻ると、話し声が聞こえた。
「……ええ、法具関連の仕入は気をつけておきます。出自の怪しいものが入れば、一度ご連絡しますよ。ええ、……わかりました。では」
通話が切れる。如月は、投げやりに携帯電話を放りだした。
「起きたのか。まだ熱があるんじゃねェか?寝てろよ」
シーツの上に転がった携帯を、拾いあげて枕元に戻してやると、嫌がるように顔を背ける。
「仕事だよ。呑気に寝ている場合なんかじゃないというのに、まったく」
「骨董屋の仕事か?こんな朝っぱらから」
「世間一般では、とっくに仕事の時間だろう。京都の同業から、盗品に注意するよう連絡がきたんだ。……お山から、秘蔵されていた法具が盗まれたらしい」
「お山」
「……君はそれでも術師のはしくれかい。京都でお山といえば高野のことだ。その手の術具は、一般的な盗品ルートよりも、僕の店のような所に売りこまれる場合が多いからね。それで」
「そりゃまた、ご苦労なこって。当分、開く予定のねェ店に」
「店は開けるよ。今日も」
「おい」
声を上げると、如月はベッドの上に身体を起こした。
「多少の熱で、寝こんでる場合じゃないんだ。真神の旧校舎から引き上げてきた品の、鑑定が残っているし。霊水や丹薬も、品薄な分を補充しなきゃいけない」
「無茶言うなよ。先生の容態だって、まだ分かんねェってのに。大人しく寝てろ」
「タツマなら、無事だよ。今朝、峠を越した」
「は?お前、何言って……」
如月は、遠くを見ていた。
射抜くような、強い視線。
俺の身体とマンションの壁を、つらぬいたその方角には。
桜ヶ丘、か。
「視えるのか?」
「いや、なんとなく………わかる。何故だろう?」
「俺が聞いてるんだぜ」
「それも、そうだね」
如月は、小さく首をかしげた。布団の端を、握りしめる。
「僕の中には、ウロがある」
唇を噛み、硬い表情で如月は言った。
「其処に、まだ力が宿っている。だから、タツマは死んでない。僕を、必要としているんだ」
どちらかといえば、唐突な説明だった。何を指してウロと呼ぶのか、いまひとつ理解できない。
俺の疑問を察して、如月は言葉を足した。
「そのウロを、僕の一族は玄武と呼ぶよ」
「そいつぁ……」
よかったじゃねェか。俺には、そうとしか言えなかった。
宿星。使命。俺には決して肯定できない物事も、如月にとっては血肉も同然の理なのだろう。
頭から否定することは、もう出来ない。
御門や薫を、止められなかったように。
「………うん」
如月は微笑んだ。
帰ると言いはる如月の、衣服は乾いてなかった。
それどころか、洗濯だってしちゃいねェ。
血と、あからさまな体液に汚れたシャツには、さすがに如月も躊躇したようだった。
シャツを手に、眉をよせて考えこむ。
俺は呆れて、それをゴミ箱に突っこんだ。
「後で、俺の服貸してやるよ」
「サイズが合わない」
しごく真面目に、如月は余ったパジャマの袖を振った。細いとは思っていたが、よもやウェスト差が二十センチもあるとは聞くまで知らなかった。肩幅にいたっては、言わずもがな、だ。
「………わかった。買ってきてやるから、飯でも食ってろ」
「ありがとう。助かるよ」
如月の感謝は、だが長くは続かなかった。
白粥をすくう匙を止め、眉をひそめる。
「………レトルトだね」
「よく分かったな」
一応、パックから食器には移しかえたんだが。
「君の食生活の貧しさは、ようく分かったよ。これでは治るものも治らないだろう」
「悪かったな、貧しくて」
如月は苦笑した。いかにも無理矢理という顔で、粥をすする。
「君は、風邪を引いたら僕の家に来るといい」
そのセリフの意図を汲みかね、俺は返事を仕損ねた。
「ちゃんと生米から煮てあげるよ」
言葉のあやか、婉曲な嫌味か。まさか好意じゃねェだろう。
「そいつは、どうも」
うやむやに応えて、クローゼットから適当なジャケットを引っぱり出した。なんとなく落ち着かねェ。
「出かけてくる。一時間で戻ると思うが、食ったら寝てろよ」
「何度も言わなくていい。裸で帰るわけにもいかないから、君が戻るまで眠るよ」
ベッドの上でため息まじりに見送る如月に、鍵は外からかけると言い置いて、俺はマンションを後にした。
昨日の次は今日。
今日の次は明日。六十秒後には一分が経過し、六十分後には一時間がたつ。
時間は連続している。何処にもピリオドは無い。
五秒後に俺が俺でなくなることも、三分後に如月が如月ではなくなることも、無いだろう。
けれど、俺と如月の関係は確実に変化していた。
この一夜を境に。
昨夜の雨が嘘のように、空は晴れていた。
昼の日射しに温んだ冬の大気が、頬をなでる。
靖国通りまで出て、携帯の時計を確認した。午前十一時四十八分。シフトはまだ芙蓉か。
信号が青になった。
雑踏が動く。
俺は病院に向かって歩き出した。
桜ヶ丘で、先生の容態を聞き出そう。如月を疑うワケじゃねェが、御門への報告の前に複数のルートで情報が欲しかった。
方針は、現状を維持。
そうあってくれれば、それにこした事はねェ。
大将や蓬莱寺、姐さんがた、その他お人好しなあの連中のために。
如月のために。
そして、俺自身のために。
俺は歩き出した。